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星海アリスは計算しない

中学1年生編 · 第1話

反転の世界

月読ライト

第1話を全文無料で読めます

カチッ。カチッ。カチッ。

シャーペンの芯を出しては引っ込める。出しては、引っ込める。
まるで、答えを探す気がないみたいに。

星海(ほしうみ)アリス、13歳。中学1年生。
目の前のテスト用紙に書かれた点数は――12点。

赤ペンで殴り書きされた数字が、西日に照らされてテカテカ光っている。
なんか、傷口みたいだ。

「……はぁ」

教室には、アリスひとり。
窓のそばの席は、夕日に焼かれてじんわり熱い。でも背中側は冷たくて、ブレザーの裏地がぺたりと肌に張りつく。
窓の外からは、部活で走り回るクラスメイトの声が聞こえる。
キャッキャッ。ドンッ。キャーッ!
みんな楽しそう。
アリスだけが、チョークの粉っぽい教室に取り残されている。

鼻の奥に、あの匂いがこびりついている。
チョークと、古い教科書と、誰かが忘れていった消しゴムのカス。
「勉強」の匂い。アリスが一番嫌いな匂い。

追試。
「60点取れるまで帰さん」と山田先生は言った。
けど、12点の人間に60点を取れって、それ、もう罰ゲームだから。

テスト用紙をぐしゃっと丸めて、ぽいっと机に投げた。
――すぐに拾って、しわを伸ばす。
丸めたところで、点数は消えないんだよな。

「……ほんっと、意味わかんない」

黒板に残された、今日の「復習問題」。
先生の几帳面(きちょうめん)な字で、こう書いてある。

  (−1)×(−1)=?

アリスは頬杖をついて、その数式をにらんだ。

にらんだ瞬間、色が見えた。

(−1)の文字のまわりに、どす黒いモヤモヤが立ちのぼっている。
ヘドロみたいな、底なし沼みたいな、吸い込まれそうな黒。
気持ち悪い。
触(さわ)ったら手が溶けそうな色。

アリスには、昔からこういう「クセ」があった。

「5」は、いつもオレンジ色に光っている。温かくて、丸っこくて、なんか元気な色。
「3」は薄い緑。ちょっとだけ冷たくて、草の匂いがする気がする。
「1」は白。真っ白で、見てると少し寂しくなる。

数字に、色が見える。
音に、形が見える。
好きなものは透き通った色。嫌いなものほど、ドロドロした汚い色になる。

共感覚(きょうかんかく)。
お医者さんはそう呼んだ。
アリスは「ただの変な目」だと思っている。

特に数学の時間は最悪だ。
黒板いっぱいの数式が、灰色と茶色のグチャグチャに見えて、
もう何が何だかわからなくなる。
他の子にはただの文字が、アリスには汚い絵の具をひっくり返したような洪水に見える。
だから数学が嫌い。
嫌いだから見たくない。
見たくないから点数が取れない。
点数が取れないからもっと嫌いになる。

無限ループ。これこそ数学的だよね、なんてね。

「マイナスにマイナスを掛けたら、プラス?」
「借金に借金を掛けたら、お金が増えるってこと?」
「……詐欺じゃん」

誰もいない教室で、ひとりツッコミ。
笑ってくれる人は、誰もいない。

この前の授業参観を思い出す。

お母さんの前で、黒板の問題が解けなかった。
山田先生が「星海、この問題やってみるか」と指名した。
30人のクラスメイトの前で。先生の前で。
そして、教室のいちばん後ろに立っているお母さんの前で。

頭が、真っ白になった。

数式が、灰色のグチャグチャに見える。
チョークを握る指が、汗で滑る。
30秒。1分。2分。
時間が、粘り気のあるゼリーみたいに、ゆっくり進んでいく。

背中で、お母さんの視線を感じる。
振り返れない。怖い。

——結局、解けないまま、席に戻った。

山田先生は優しかった。
「次、頑張ろうな」と、肩を叩いてくれた。
でも、その優しさが、よけい辛かった。
優しくされるってことは、つまり、私は優しくされる側の人間だってことだ。

帰り道、お母さんは何も言わなかった。

怒ってくれた方がまだよかった。
「頑張ったね」って嘘でもいいから言ってほしかった。
何も言わないのが、一番きつい。

お母さんの靴音だけが、コツ、コツ、と等間隔に鳴っていた。
アリスはその音を数えていた。家に着くまで、137歩。
なんで覚えてるんだろう。忘れたいのに。

家に着いた後も、気まずい空気は続いた。
夕飯は、いつもより少しだけ、塩辛かった。

その夜遅く、アリスは喉が渇いて目が覚めた。

そっと階段を降りると、台所に、まだ明かりがついていた。
お母さんが、テーブルに座っていた。

手元に、何かの紙。——今日の12点のテストじゃない。もっと前の、参観日の日に返されて、帰ってすぐゴミ箱に捨てたはずの、くしゃくしゃの答案だった。丁寧に、しわが伸ばされていた。

(……やだ。見てる。点数を、見てる)

アリスは階段の影で、足を止めた。心臓が、嫌な音を立てる。

でも。

お母さんの指は、赤い点数の上には、なかった。

答案の、余白のところ。アリスが途中まで書いて、消して、また書いた、計算の跡。丸っこい、へたくそな字。

お母さんは、そこを、指でなぞっていた。

ゆっくり。何度も。まるで、そこに何か大事なものが書いてあるみたいに。

——意味が、わからなかった。

捨てた答案の、点数じゃないところを見て、何になるんだろう。

アリスは水を飲むのをやめて、音を立てないように部屋に戻った。

布団の中で思った。きっとお母さんは、あのひどい点数を見て、ため息をついてたんだ。私の知らないところで、がっかりしてたんだ。

——そうとしか、思えなかった。

——だから、参観日のことなんか、もう思い出したくなかったのに。

頬杖をついた腕が、じんわり痺れていた。
教室の窓ガラスが、夕日でオレンジ色に焼けている。

目の前のテスト用紙に書かれた――12点。

これを見て、お母さんは何て言うのかな。

たった一言でもいい。

「頑張ったね」じゃなくていい。
「次は大丈夫」でもなくていい。
「勉強しなさい」って怒鳴られるのだって、今ならマシだったと思う。

ただ——

「数学ができなくても、あなたのことを愛してるよ」

そう言ってほしかっただけだった。

でも、お母さんは何も言わない。

たぶん——お母さんも、知らないんだ。
12点の娘に、何て言えばいいか。

きっと、お母さんも、おばあちゃんから言ってもらえなかったんだ。
だから、お母さんも、私に言えないんだ。

怒ってない。お母さんは悪くない。
悪いのは——

机の上の、12点のテスト用紙を見る。
赤ペンの数字が、傷口みたいに光っている。

——悪いのは、あの黒板の(−1)×(−1)に、12点しか取れなかった、私だ。

「……帰ろ」

アリスはカバンをつかんで、教室を飛び出した。
追試? 知らない。明日怒られる? 知らない。
今はただ、あの気持ち悪い黒いモヤから逃げたかった。

黒板の上で、(−1)×(−1)=? が夕日に照らされている。
クエスチョンマークが、まるでアリスを追いかけてくるみたいだった。

商店街の帰り道。

アリスは石ころを蹴飛ばしながら歩いていた。
コン。コロコロ。カラン。

コロッケの油の匂いが、肉屋の方から漂ってくる。
いつもなら買い食いするのに、今日は食欲がない。
夕日が、商店街のアーケードの隙間(すきま)から差し込んで、地面にオレンジの縞模様(しまもよう)を作っている。
きれいだけど、アリスの目にはぜんぶ灰色に見える。
テストが12点の日は、世界まで色を失くす。

石が転がった先は、路地裏のマンホール。

ふと、足が止まる。

マンホールのフタの隙間から、何かが漏(も)れている。
光? いや、違う。

闇だ。

まわりの影よりも、もっともっと濃い、真っ黒な闇。
見てるだけで、体ごと吸い込まれそうになる。

怖い。のに。

(……きれい)

アリスの口から、ぽつりとこぼれた。

まるで、冬の夜空をそのまま切り取ったような。
星のない、澄んだ漆黒(しっこく)。
アリスが見てきた「汚い黒」とは、まったく違う。
数式の灰色でもない。テストの黒でもない。これは——純粋な、何かの色。

気がつくと、マンホールの上にしゃがみこんでいた。
覗きこむ。
もっと近くで見たい。
この黒が、何なのか知りたい。

指先が、フタの隙間に触れた。
金属の、ひんやりした感触。

ズルッ。

足元が消えた。

「え――」

落ちる。
いや、違う。
上に、落ちる。

空に向かって、体が吸い上げられていく。
視界がぐるん、と裏返る。
白い空。黒い太陽。色が全部、おかしい。

「う、うそ、落ちっ――落ちるぅぅぅぅっ!?」

アリスの悲鳴が、誰もいない空間に吸い込まれていった。

    ◇

ドスンッ!

お尻に、ものすごい衝撃。
「いっっっったぁ……!」

アリスは涙目で周りを見た。
そして、固まった。

空が、白い。
雲じゃない。空そのものが、真っ白。
太陽があるはずの場所には、真っ黒な丸が浮かんでいる。
黒い太陽。

匂いもおかしい。
さっきまでの商店街のコロッケの匂いは消えて、代わりに、焦げたゴムみたいな酸っぱい空気が鼻をつく。

「……え?」

立ち上がろうとして、手をついた。
——その時、指先に、何かが触れた。

冷たくて、すべすべした、細長いもの。

「……?」

アリスはそれを、握って、持ち上げた。

細くて、銀色に光る、一本の棒。
指揮棒(タクト)みたいな、きれいなステッキ。

「なに、これ……」

落ちていた。
こんなところに。
まるで、誰かが、わざわざここに置いておいたみたいに。

不思議だった。
こんな場所にあるはずがないのに。
でも、握ったら——

手のひらに、馴染(なじ)む。

ぴったり、だった。
まるで、最初から、自分のために用意されていたみたいに。

「……気のせい、だよね」

アリスは首を振った。
そんなはずない。
誰が、私のために、こんなところにステッキなんて置いとくの。
——気のせい、気のせい。

でも、なんとなく。
手放せなかった。
握ったままで、立ち上がった。

足元はアスファルト。一見、普通の街。
でも、全部おかしい。

看板の文字が、左右逆(ぎゃく)だ。
「ーヒーコ」「んぱンパ」。
鏡の中にいるみたい。

そして、もっとおかしいもの。

人が歩いている。
たくさんの人が、通りを行き交(か)っている。
でも全員、背中を前に進んでいる。

後ろ向きなのに、つまずかない。
後ろ向きなのに、ぶつからない。
まるで、それが「普通」みたいに。

「気持ち悪……」

アリスは一歩、後ろへ下がった。

ドンッ。

何かにぶつかった――はずなのに、振り返っても誰もいない。
代わりに、自分の体が前に2メートルくらい進んでいた。

「は?」

もう一度、後ろへ。

スッ。

また、前に進んだ。

「…………」

試しに、前に一歩踏み出してみる。

ズザッ。

体が、後ろに滑った。

「えぇぇぇ……」

前に行こうとすると、後ろに行く。
後ろに下がろうとすると、前に進む。

ここは、全部が「あべこべ」の世界。

アリスが呆然(ぼうぜん)と立ち尽くしていると、
路地の奥の暗がりから、ズルリ、と音がした。

濡れた雑巾を地面に引きずるような、
ねちゃねちゃした音。

匂いが来た。
錆びた鉄と、腐りかけのミカンを混ぜたような、
鼻の奥がツンとする嫌な匂い。
教室のチョークの匂いなんか比じゃない。世界一気持ち悪い匂い。

暗がりの中から、赤黒いヘドロの塊がにじみ出てきた。
目も口もない。形もない。
ただ、ぶよぶよと脈打つ不定形の怪物。

アリスの共感覚が悲鳴を上げた。
あのヘドロの色は、テストの時に見える灰色よりもっとひどい。
「嫌い」のさらに奥にある、「恐怖」の色。

そして――声が聞こえた。

『……ケ……シ……テ……ヤ……ル……』

声じゃない。空気が、震えている。
アリスの全身に、鳥肌が立った。

(逃げなきゃ)

体が動く前に、頭が叫んだ。

(逃げなきゃ、逃げなきゃ、逃げなきゃ!)

    ◇

アリスは走った。

怪物から離れるために、全力で足を動かした。
腕を振り、地面を蹴り、前へ、前へ、前へ!

ズザザザザッ!

体が、後ろへ吹っ飛んだ。

「なんでっ!?」

走れば走るほど、怪物に近づいていく。
あべこべの世界。前に行きたければ後ろへ行く。
頭ではわかっている。
でも、目の前に怪物がいるのに「怪物に向かって走れ」なんて、無理に決まってる。

心臓が、喉の奥まで上がってきたみたいにドクドク鳴っている。

ヘドロの怪物が、触手をぬるりと伸ばしてきた。

「来ないでっ!」

アリスは足元の石を掴んで、怪物に叩きつけた。
ブンッ!

石は、アリスの手を離れた瞬間に――
くるっと、Uターンした。

コツン。

自分のおでこに当たった。

「……いったぁ」

じわっと涙がにじむ。
痛いし、怖いし、意味わかんないし。

「攻撃したら自分に返ってくるとか……なんなのここ、性格悪すぎでしょ……!」

涙声で毒づく。でも怪物は止まらない。
ぐちゅぐちゅと音を立てながら、じわじわ近づいてくる。

背中が壁にぶつかった。
行き止まり。

もう、逃げ場がない。

『……キ……エ……ロ……』

触手が、振り上げられる。

(終わった)

アリスはぎゅっと目をつぶった。
暗闇。心臓の音だけが、ドクンドクンと耳を叩く。

その時。

目を閉じているのに、何かが「見えた」。

いつもの共感覚。
数字に色が見えるアレ。
でも今回は、いつもと違う。

灰色じゃない。茶色でもない。
暗闇の中に、1本の光る線が浮かんでいた。

白くて、まっすぐで、きれいな線。
まるで——暗い教室の窓から差し込む、細い光みたいな。

真ん中に、ゼロ。左にマイナス。右にプラス。

(――数直線?)

山田先生が黒板に描いてた、あれだ。
あの汚い灰色のグチャグチャだと思ってた数式の中に、こんなきれいな線が隠れてたの?

線の上で、光の点がぴょんぴょん跳ねている。
アリスが前に走った時。光の点は右(プラス)に飛んだ。
――でも次の瞬間、パタンッと、ゼロを軸にひっくり返される。
左(マイナス)に叩き落とされる。

石を投げた時も同じ。
右に飛んだ光が、パタンッ、左に返ってくる。

全部。全部、反転させられてる。

(……そういうことか)

この世界は――全部に「マイナス1」を掛けてくる世界なんだ。

やりたいこと(プラス)に、この世界(マイナス)を掛けると、
結果は全部、逆(マイナス)になる。

だから何をやっても裏目に出る。

……でも。

アリスの脳裏に、あのクエスチョンマークが浮かんだ。

  (−1)×(−1)=?

じゃあ。

最初からマイナスの行動をしたら?
光の点を、左(マイナス)に飛ばしたら?

パタンッ。

ゼロの壁で、ひっくり返る。
左が右に。マイナスがプラスに。

「……あべこべの世界で」

アリスは、泥だらけの手で涙を拭(ぬぐ)った。

「あべこべのことをすれば……」

わかった。
体が先に理解した。

頭の中で、何かがカチッとはまった。
バラバラだったピースが、一本の線でつながる。
——マイナスとマイナスは、プラスになる。

  (−1)×(−1)=+1

世界が、少しだけ広くなった気がした。

後ろに走れば(マイナス)――この世界がひっくり返して(マイナス)――前に進む(プラス)。

「後ろの後ろは――前だ!!」

アリスは、怪物に背を向けた。

壁に向かって、身構える。
あの気持ち悪いヘドロの怪物なんか、もう見ない。

『……?……』

怪物が、一瞬だけ動きを止めた。
獲物(えもの)が逃げるのをやめたことに、戸惑(とまど)ったみたいに。

アリスは深呼吸した。
吸って、吐いて。

膝(ひざ)がガクガク震えてる。唇も震えてる。背中は冷たい汗でびっしょりだ。
でも。

(私は逃げない)
(逃げないけど、前にも進まない)
(この世界に、私の「あべこべ」をぶつける)

壁に向かって。
怪物とは反対方向に。
思いっきり、走る。

「いち」

右足を引いた。アスファルトの粒が、靴底でじゃりっと鳴る。

「にの」

左足に力を込める。ふくらはぎが、ぎゅっと固くなった。

「さんっ!!」

ダンッ!!

アリスは壁に向かって――つまり怪物の逆方向に――全力で地面を蹴った。

「後ろに下がれぇぇぇぇっ!!」

――その瞬間。

世界が、弾けた。

ドォンッッ!!!

ジェットコースターの最初の落下。その100倍のG。
体が、ロケットみたいにぶっ飛んだ。

後ろに走ったはずなのに。
体は、猛スピードで前に飛んでいる。

あべこべの世界で、あべこべのことをした。
マイナスの世界で、マイナスの行動。
答えは、プラス。

  (−1)×(−1)=+1

「う、うそ……速っ……!」

景色が線になる。風が頬(ほお)を切る。
涙が横に飛ぶ。
止まれない。止まらない。

怪物が、目の前に迫る。

(ぶつかる!)

アリスは無意識に、握っていたステッキを前に突き出した。

その先端から、光が生まれた。

黒でも白でもない。
赤。青。黄。緑。紫。橙。水色。
この世界で初めて見る、本物の色。
七色の虹が、ステッキの先で、ぐるぐると渦を巻いている。

あの「汚い黒」とは真逆の、まぶしいくらいの光。
マイナスとマイナスをぶつけて生まれた、純粋なプラスの力。

「マイナスとマイナスで――プラスにしてやるっ!!」

ズドォォォォォン!!!

アリスのステッキが、ヘドロの怪物のど真ん中を貫(つらぬ)いた。

怪物は声も上げずに、光の粒になって散っていく。
パァァァァァ――
世界が、まばゆい光に包まれる。

白黒だった空に、青が戻る。
鏡文字だった看板が、ぐるんと正しい向きに回る。
後ろ向きだった人々が、ふっと消えていく。

世界が、色を取り戻していく。
反転の反転。
あべこべの、あべこべは――元通り。

光の粒が、ゆっくりと降ってくる。

音が、消えていた。
風もない。声もない。怪物のあの気持ち悪い音もない。
世界中から音が抜け落ちて、光だけが残った静寂。

アリスは光の中で、立ち尽くしていた。

右手がじんじんしている。
膝が震えている。
泥だらけで、汗だくで、おでこにはコブ。

でも。

光の粒が頬に触れた瞬間、ほんのり温かかった。
怖い色じゃなかった。

アリスの共感覚が、初めて見た色だった。
灰色でも、茶色でも、ヘドロの黒でもない。
名前のない、やさしい色。

(……数学って、こんな色もあったんだ)

ぽつりと、そう思った。

気がつくと。

アリスは、夕暮れの教室で立っていた。

黒板の前。
右手に、まだ、握ったまま。

細くて、銀色に光る、一本の棒。
指揮棒(タクト)みたいな、きれいなステッキ。
まだ、ほんのり温かい。

「……夢?」

アリスはぼんやりとつぶやいた。
でも、制服の裾(すそ)は泥だらけだし、おでこにはコブができている。
そして、何より——手の中に、ちゃんと、ステッキがある。

夢のわりには、痛い。
夢のわりには、確かに、握っている。

教室には、まだあの匂いが残っていた。
チョークの粉と、古い教科書の匂い。
さっきまで嫌いだったはずの匂い。
でも今は、なぜだか——ほっとする。

帰ってきたんだ、と思った。

視線を落とすと、机の上にテスト用紙が広がっていた。

  (−1)×(−1)=?

あの問題。
さっきまで、世界一意味がわからなかった問題。

アリスはゆっくりと椅子に座った。
銀のステッキを机に置く。
シャーペンを持つ。

カチッ。

芯を出す。今度は迷わない。

「あべこべの世界で、あべこべのことをしたら、元に戻った」
「マイナスかけるマイナスは……プラスってことでしょ」

答えの欄に、きれいな字で書きこんだ。

  +1

ぜんぜん難しくなかった。
体が覚えてる。
後ろに走ったら、前に飛んだ。
それだけのことだ。

アリスは少しだけ笑った。
テスト用紙の「12点」が目に入る。

「……悪くないじゃん、そのルール」

窓の外では、夕日が沈みかけている。
教室が、オレンジ色に染まっていた。
さっきまであんなに灰色に見えた場所が、今はオレンジ。
同じ教室なのに、見える色が違う。

机の上で、銀のステッキがキラリと光った。
まるで、「おかえり」と言ってるみたいに。

アリスはそっと、ステッキに触れた。

——温かい。

不思議だった。
こんなに細い棒なのに、握ると手のひらが安心する。
さっきまであんなに怖かったのに、これがあるだけで、もう、ヘドロの怪物だって倒せる気がする。

アリスはふと、窓の外に目をやった。
校庭はもう誰もいない。部活はとっくに終わっている。
夕日が、地平線の向こうに沈もうとしていた。

帰らなきゃ。
家に。お母さんが待ってる家に。

——その瞬間。

アリスの胸の中で、何かが、ぎゅっと縮まった。

家。
さっきまで、戻りたかった場所。
あの異世界の真ん中で「帰りたい」と思っていた、たったひとつの場所。

なのに——

立ち上がろうとした足が、止まった。

机の前で、もう一度、座り直した。

12点のテスト用紙。その横に置かれた、銀のステッキ。
(−1)×(−1)=+1の答えが書かれた、新しい+1の文字。

「……すごいよね。私、たぶん、すごいことしたんだよね」

誰もいない教室に、ぽつりと声が落ちた。

「異世界に行って。怪物倒して。魔法、使えたんだよね」

机の木目を、指でなぞる。

「でもさ」

声が、少しだけ震えた。

「……家に帰ったら」

「お母さんは、何も言わないんだよね」

ステッキの銀色が、ふっと、弱くなった。

アリスは前髪を、ゆっくり、指に巻きつけた。
ぐるぐる。ぐるぐる。
迷う時の、癖。

「お母さんが私に言ってほしいことを、言わせる魔法って——」

「……ないんだろうな」

マイナスとマイナスを掛けたら、プラスになる。
あべこべの世界で、あべこべのことをすれば、元に戻る。
(−1)×(−1)=+1。

数学の世界には、ちゃんとルールがあった。
反転させれば、答えが出る世界。

でも——

うちの世界は、違う。

お母さんが何も言わないのを、何度反転させても、
お母さんが「数学ができなくても、あなたのことを愛してるよ」って言ってくれる、にはならない。

家には、どんな魔法も、効かない。

「……結局、私」

アリスは、机に突っ伏した。
頬に、テスト用紙のひんやりした感触。
赤ペンの「12点」が、目の前で、にじむ。

「あべこべの世界から帰ってきても、私は12点のまま」

ステッキの光が、消えた。

教室の外で、夕日が、ゆっくりと落ちていく。
オレンジ色だった教室が、紫に変わって、灰色に変わっていく。

アリスは、しばらく動けなかった。

机の木目に、涙が一滴、染みていった。

どれくらい、そうしていただろう。

アリスはようやく顔を上げた。

ステッキは、まだそこにあった。
さっきまでの輝きは消えて、ただの銀の棒みたいに見える。
でも——指で触れると、まだ、ほんの少しだけ、温かかった。

「……帰ろ」

カバンに教科書を詰める。
ステッキを、そっと、ブレザーの内ポケットにしまった。

教室を出た。
廊下は、もう薄暗い。

下駄箱で靴を履き替える時、ふと気づいた。

ステッキの銀色の表面に、うっすらと、見たことのない記号が浮かんでいた。

  ÷0

ゼロで、割る。

それが何を意味するのか、今のアリスにはわからない。
わかりたいとも、思わなかった。

数学の世界に、どんな新しい魔法があったって——
家に着いた時、お母さんはきっと、いつもと同じ顔で、いつもと同じ声で「おかえり」と言うだけだ。

アリスは、また、靴音を数えながら歩く。
今日は、137歩が、いつもより長く感じるかもしれない。

帰る場所は、変わっていない。
変わらないことの重さを、内ポケットのステッキの温もりだけが知っていた。

――第1話「反転の世界」了――