転生してまで、『わたしなんか』って言わないで!
第1編 · 第1話
休みたい
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「たかが三つの誤字で、チーム全員に迷惑がかかった」
課長の声は、大きくなかった。
夜の会議室。白い蛍光灯。
机の上に、わたしの作った資料が置いてある。
赤いペンの丸が、三つ。
「明日の朝いちばんの会議で使うから。今日中に直して」
「はい。すみません」
課長が、少しだけ顔を上げた。
「……大丈夫か?」
「大丈夫です。すぐ直します」
考える前に、口が答えていた。
*
席に戻ると、フロアの明かりは半分消えていた。
みんな、もう帰っている。
赤い丸を、ひとつずつ直した。
三つ直して、それから、一枚目から全部読み直した。
ほかにも、あるかもしれない。
まだ、見落としがあるかもしれない。
――三つも。
――何回も見たのに。なんで、こんなこともできないの。
頭の中で、声がしている。
その声に追いかけられるように、また一枚目に戻る。
左手で肩をもみながら、画面の字を追った。
首を回すと、ごきっと鳴った。
パソコンの右下の時計は、十時四十分。
今日も、シャワーだけだな。
本当は、お風呂が好きだ。
熱めのお湯に、肩までつかる。
何も考えないで、ぼうっとする。
その時間が、いちばん好きだ。
火曜日に、ちょっといい入浴剤を買った。
ゆずの香りのやつ。
洗面所の棚に置いたまま、まだ封も切っていない。
金曜日に使おう。金曜日なら、ゆっくり入れるはず。
……先週も、同じことを思った気がする。
*
直した資料を送ったのは、十一時を過ぎてからだった。
送信ボタンを押して、立ち上がった。
帰る前に、手だけ洗おう。
床が、ほんの少し、かたむいた。
机に手をついて、やり過ごした。
トイレの鏡に、疲れた人が映っていた。
目の下に、影。
肩までの黒い髪を、低い位置で、ひとつに結んでいる。
その結び目も、半分ほどけかけていた。
しわの寄った、白いブラウス。
首から下がった、青いストラップの社員証。
見ていられなくて、目をそらした。
蛇口をひねって、水を手にためた。
そのとき、床が抜けた。
そう感じた。
本当に抜けたのは、わたしのひざの力だった。
洗面台のふちをつかみそこねて、ずるずると滑り落ちる。
右のほおが、床のタイルについた。
冷たかった。
熱っぽかった顔に、それが少しだけ、気持ちよかった。
起きなきゃ。
腕が、上がらない。
――三分だけ。三分休めば、帰れる。
――誰か入ってきたら、びっくりさせちゃう。
耳の奥で、ざあざあと音がした。
蛍光灯の白が、端のほうから、暗くなっていく。
そのとき。
ずっと奥のほうから、小さな声がした。
課長の声でも、あの厳しい声でもない。
――休みたい。
――ちゃんと、休みたい。
――ゆずのお風呂に、ゆっくり入って。
それから、もうひとつ。
――「大丈夫です」なんて、言わなければよかった。
――全然大丈夫じゃ、なかったのに。
――正直に、言えばよかった。
覚えているのは、そこまでだ。
*
《お知らせします。……の移しかえは、無事に、終わりました》
声がした。
はじめのほうが、よく聞き取れなかった。
移しかえ。
無事に、終わった。
……手術だ。
きっと、病院だ。
わたし、倒れたんだ。
誰かが、運んでくれたんだ。
そう思った。
でも、背中に、ゴツゴツしたものが当たっている。
病院のベッドは、こんなに固くない。
目を開けた。
葉っぱだった。
頭の上いっぱいに、葉が重なっている。
すき間から、白っぽい空がのぞいている。
天井じゃない。
蛍光灯もない。
……ここ、どこ。
心臓が、どくんと鳴った。
声を出したら、何かに見つかる気がした。
息を止めて、首だけ動かす。
右。木。
左。木。
太い幹と、こけと、落ち葉。
人の声も、車の音もしない。
何も、飛び出してはこない。
そこまで確かめて、やっと息を吐いた。
逃げるにしても、まず起きないと。
ひじをついて、体を起こした。
肩から、何かがざあっと流れ落ちた。
髪だ。
銀色の髪。
胸を通って、ひざを越えて、落ち葉の上にまで広がっている。
誰の。
ひと房つかんで、引いてみた。
頭の皮が、つん、と引っぱられた。
……わたしの、らしい。
うそだ。
さっき鏡で見た時は、黒髪だった。
髪をつかんだ手が、目に入る。
細くて、白い。
知らない人の手みたいだった。
そして、指先が光っていた。
豆電球を、手のひらでくるんだくらいの、うすい光。
ぞっとして、服にこすりつけた。
消えない。
熱くもない。
ただ、じんわりと、あたたかい。
「なに、これ……」
声が出て、また固まった。
細くて、高い。
これも、わたしの声じゃない。
わたしの声は、もっと低くて、夜にはいつもかすれていた。
落ち着け。落ち着け。
顔にかかった髪を、耳にかけようとした。
指が、耳のふちをなぞった。
なぞって、なぞって、まだ終わらない。
耳が、長い。
先が、とがっている。
引っぱると、ちゃんと痛い。
「……エルフ?」
物語の中でしか、見たことのない耳だ。
「うそでしょ……」
ここにいても、何も分からない。
せめて、遠くが見たい。
ひざに手をついて、ぐっと力を入れた。
入れきる前に、体がふわりと持ち上がった。
軽い。
びっくりするほど、軽い。
そこで、やっと気がついた。
肩が、重くない。
腰が、痛くない。
いつも重たかった場所が、何も言ってこない。
重かったんだ。
ずっと。
毎朝、布団から出るのに、あんなに気合いがいったのは。
見下ろすと、裸足だった。
着ているのは、くすんだ白い布が一枚。
頭からかぶって、腰をひもでしばっただけの服だ。
ボタンがない。ベルトがない。きついストッキングもない。
締めつけるものが、何もない。
今までの服が、どれほど体を締めつけていたのか。
やっと分かった。
でも、軽すぎて、なんだか心細い。
守ってくれるものが、何もない気がした。
……ポケットもない。スマホもない。
スマホがない!
それが、いちばん怖かった。
誰にも、連絡ができない。
「……あの」
気がつくと、声を出していた。
最初に聞こえた、あの声。
あれは、夢じゃなかった。
誰かが、どこかにいる。
「さっき、何か言いましたよね。どちら様ですか」
返事は、すぐだった。
耳ではなく、頭の中に、じかにひびく声。
《お答えします。わたしは、裁定者です》
「さいてい……?」
《さばいて、決める者。裁定者です》
《あなたの魂を記録して、この世界での道案内をします》
声に、上がり下がりがまるでない。
駅のアナウンスみたいだ。
「……さっきの。移しかえって、手術のこと、ですよね?」
《いいえ。魂の、移しかえです》
《生まれ変わり、とも言います》
「生まれ変わり……? だって、そんなの、その前に、ほら……」
言いかけて、止まった。
タイルの冷たさを、ほおが思い出した。
《お答えします。前の命は、終わっています》
《あなたの体は、あの床の上で、動かなくなりました》
木の葉が、さわさわと鳴った。
わたしは、何も言えなかった。
言えなかったのに、口のほうが先に動いた。
「……あの。資料、ちゃんと届いてますか。明日の朝の会議で、使うんです」
《それは、わたしの受け持ちではありません》
「課長に、すぐ直しますって、返事しちゃって」
《受け持ちではありません》
「金曜日に、お風呂も」
《受け持ちではありません》
三回目は、少しだけ早口だった。
ゆずの入浴剤。
洗面所の棚の、いちばん手前。
封も切っていない、あの袋。
あれは、もう、使えない。
それが分かったとたん、胸の奥が、すっと冷えた。
死んだ。
わたしは、本当に、死んだんだ。
指先の光だけが、変わらずに、あたたかかった。
《お知らせします。あなただけの力を、確認しました》
裁定者が、また平らに言った。
《名前は、温手》
「……ぬくて?」
《お答えします。あたたかい手、と書きます》
《咎に、ふれることのできる手です》
「とが……?」
返事はなかった。
あたたかい手。
指先の光が、ほんの少しだけ明るくなった。
名前を呼ばれて、返事をしたみたいに。
「……待ってください」
言葉が、勝手にこぼれていく。
「わたし、誤字を三つも見落とすような人間で。わたしなんかに、そんな特別なもの……」
《お知らせします》
声は、わたしの言葉を、最後まで待たなかった。
《この力を持った人は、これまで一人もいません》
《この力は、世界に、ひとつです》